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ニガタケで作られた庄内竿の特徴として細くとも竹質が強靭であることが上げられる。竿の長さ15尺で(約4.5m)で元径が1.0cm、18尺(約5.4m)で元径が1.2cm、21尺(約6.4m)で元径が1.5cmと云う細身の竿が他の地方にはあるだろうか?さらに名竿では、節間が適度に均一近い形で徐々に細く短くなって行き、根から穂先まですんなりと均整がとれ、根っ子がゴボウ根であれば特に尊ばれている。
昭和のはじめ頃に、天才山内善作は一本の竹で作るのが当たり前であったにも関わらず、継竿で一本の元竹を用いて上半分を別の竹を使って調子の異なる竿を作って見せた。どちらが元々の竹で作られたか分からない、良い出来栄えであったそうだ。関東、関西ではこういった技法は当たり前のように使われているのであるが、庄内ではこの作り方は通称後家竿と云われ、竿師や釣師には嫌われている竿作りの技法である。これに良く似た作り方で明治の上林義勝は、元竿に上半分を別な竹で継いだ竿を作っている。これなども完全な後家竿と呼ばれる竿であるが、さすが名人の作った竿であるから、一本の竿であるかの様で云われなければ分からなかったと伝えられている。
庄内の多くの竿師は名竿になる竹を求めて、竹薮を足を棒にして捜し歩いたが、早々名竿と呼ばれる竹等簡単に採られる訳はない。江戸から明治時代にかけての竿は、細身で強靭な白竹の竿が主流であった。ところが何故か大正から以降、軟らかい斑の入った竹の竿が増えている。竹を研究しているえらい学者さんに云わせると地中に居るウイルスが原因だと云う。余りにも斑竹が多いために酒田の著名な竿師は、元々斑あるニガタケが多いのであるという説を出した。白竹等はほんの少ししかなかったのだとも云っている。その為少しくらい斑が入っていても白竹と呼んでいる。
白竹は硬く強靭な物が多いが、斑竹は白竹比べてかなり軟らかい竹が多いと云うのが定説である。がしかし、斑竹の中にも稀に硬い竹も見られる。昭和の初めの頃天才山内善作は、その固い斑竹を使って竿を作った。その為、白竹が最上とする釣師たちから、「善作の斑竹」と蔑んだ罵声を浴びた。竿作りの天才山内善作の頭の中では、良い竹は白竹も斑竹もなかったのではなかろうか?良いものは良いと云う考えのもと、竿作りに励んだものと見える。庄内の藪から白竹が減って来たと云う危機的状況を知らぬ、釣師たちの偏見でもあったのだ。
庄内竿を多数保有している従兄弟の昭和30年代からの竿を見るにつけ、斑竹が多く見られる。白竹に近い物でも、少し斑が見える。白竹は高価であったからなお更の事ないのかも知れぬが、家族に処分されて40年代に買い求めた自分の竿には白竹はまったくない。学者の云う通りの地中に住むウイルス説だとしたら、公害と斑竹の関係は、まったく縁がなくもないと考えられる。文化が進んで来たと同時に種々のウイルスが活発になって来たと考えればつじつまが合う気がする。しかもこの現象、他の竹にも多々あるとも云うのだ。その現象はメダケ竹なのか、どうかは分からず仕舞いである。そんな事は竹の本を調べてもまったく書いては居ない。メダケだけの現象なのだろうか?それともニガダケと云う、種類だけの問題なのであろうか?不思議な現象ではあるが、確かなことはとにかく斑がきつい物ときつくない物とまるっきりない物とがあるようだ。
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